【ディズニーランド歴史散歩】ジャングルクルーズ

ディズニーランド歴史散歩

ディズニーにあまり興味がないけど、彼女や子供の付き合いでディズニーランドに行くという人も多いと思います。そんな人でも知ってると意外と楽しめる、歴史やコンセプトについての知識を紹介していきたいと思います。今回はジャングルクルーズです。

ウォルトの南米旅行

1941年、ウォルトは政府からの親善旅行の申し出を受けてスタッフ達と南米に旅立ちます。初めは断りましたが、南米での2本の映画制作費用の政府負担という条件を受けて承諾します。ブラジルなどの国々を回ったウォルトとはファンからの歓迎を受けます。一行はコロンビアの川で熱帯雨林の見物をしましたが、その時の経験がヒントになって「ジャングルクルーズ」が生まれたのではないかと言われています。でもその旅は、ウォルトが傷ついた心を癒すための逃避の旅でもありました。

戦時中の苦境

第二次大戦に入り、ディズニー社の経営はかなり悪化します。大きな収益をもたらしてきたヨーロッパの市場からの収益がなくなってしまうからです。そんな中、ファンタジアやピノキオの興行も奮いません。芸術的には間違いなく素晴らしいのですが、一般受けしなかったのです。スタジオの資金が底を尽き、ついにディズニー兄弟だけで経営していたスタジオの株式を公開せざるをない状況になります。

さらにそのころ、ハリウッドで労働組合の勢力が拡大していました。賃金の上昇と労働環境の向上を求め、ディズニースタジオでも組合が組織されます。クリエーター達に対するウォルトの処遇に不満がつのった結果でしたが、一方のウォルトはそれを仲間達の裏切り、共産党の陰謀、などと捉えており、両者の溝は深まっていきます。そしてついにストライキを決行した組合員がスタジオ前でデモをする事態となります。スタジを芸術家達のユートピアにしたいというウォルトの思いは砕け散り、家族だと思っていたスタッフたちとの関係はそれ以降もとに戻ることはありませんでした。

そんな中での南米旅行の申し出でした。乗り気でなかったウォルトでしたが、アニメ制作の不調と組合との戦いに疲れきっていた彼は、スタジオから離れて心身を休めるために南米行きを決めます。

19世紀の「探検」の時代

ジャングルクルーズの行程は地理的にはめちゃくちゃです。アマゾン、東南アジア、アフリカと、あらゆる地域のイメージが連続しており、それぞれの冒険要素の美味しいところが集められてごっちゃになっています。現実を再構築して、理想の冒険の旅が具現化されています。それは19世紀に新たな資源を求めてアフリカなどを旅したヨーロッパ人たちの冒険の世界です。

19世紀後半、産業革命を背景に新たな天然資源を求めてヨーロッパ各国の探検家が世界中を旅する探検の時代が訪れます。アフリカを探検したスタンリーとリヴィングストンが有名です。彼らは未開の地で見た動物や原住民の様子を母国に伝え、魅惑的でワクワクする冒険の世界のイメージを民衆に広めます。

ジャングルクルーズは、下手をすると未開の地を先進国の白人が上からの目線で見るイメージだと捉えられかねない気がします。今後、今のままで残していってくれるのか、カリブの海賊のように改変させられてしまわないか、若干の不安を感じてしまいます。

機械仕掛けの動物たち

企画段階では本物の動物を配置することも検討されたようです。でもやはり動物たちの動きをコントロールして考えた通りの演出効果を出すために、機械仕掛けの動物を作ることになります。本物そっくりの動物たちは、ウォルトがスタジオのラボのスタッフに指示して自前で制作させました。映画のプロでもあるスタッフたちがその期待に応えます。それが今も続く「イマジニア」というクリエーターでもあり設計者でもあるという役割を持った人たちのルーツではないでしょうか。

ジャングルを巡るボートには案内役のキャストが乗り込み、軽快で楽しいトークで観客を楽しませてくれます。トイ・ストーリーの監督で、セクハラのスキャンダルでピクサーのトップを辞任したジョン・ラセターですが、カルアーツ在学中の夏休みにジャングルクルーズの船長のバイトをしていたそうです。ディズニーに憧れていた彼はその後めでたくスタジオに入社しますが、そこからピクサー設立に至る壮大なストーリーはとてもここでは説明しきれないですね。

参考図書

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