【書評】メンデルからゲノム編集まで『遺伝子―親密なる人類史』

科学

がん研究者である著者が、遺伝学の発展の歴史を過去から未来まで、科学者たち一人ひとりのエピソードも交えて書ききった大著です。メンデルとダーウィンが遺伝学の基礎を切り拓いたところから始まり、ナチスの優生学、DNAの二重螺旋構造の発見、ヒトゲノム計画、遺伝子診断、そして未来の遺伝子治療の技術と倫理に至ります。遺伝子についてのあらゆる側面を解説した科学ノンフィクションですが、まるでひとつの映画かドラマを見ているような感覚で、遺伝子にまつわる壮大なストーリーを体験することができます。

細胞やDNAなどの図解はほとんどなく、全ては文章で説明されています。ところがその文章が素晴らしいです。細部に入りすぎず、概念を理解するためのイメージを的確に伝えてくれます。

感想

まず面白かったのは、全ての細胞が同じ1セットの遺伝子を持っているのに、その同じ遺伝子から全身の複雑な機能が作り出せるのかについての説明でした。遺伝についての本は何冊か読んだことがあるのですが、その答えを読んだのは本書が初めてでした。簡単に言うと、ある遺伝子がある特定のタンパク質を作りだすと、そのタンパク質が特定の遺伝子をオンにしたりオフにしたりという指令を出す。するとそれによって新たなタンパク質が生み出され、それがまた特定の遺伝子に働きかける。これがドミノ倒しのように連なって、生物の体を形作るというのです。つまり遺伝子にプログラムされているのは完成した生物の設計図ではなく、生物を作るための一連の「レシピ」だというのです。専門的にはもっと難解な詳細があるのでしょうが、この秀逸すぎる例え話でこれまでの疑問が解消されて目から鱗でした。

次に、遺伝子がレシピであるために、人間のDNAの塩基配列を全て解読するヒトゲノム計画が完了した現在でも、遺伝子の働きについてはほとんど分かっていないという事実です。一つの機能を一つの遺伝子が担っているわけではなく、遺伝子のレシピに書かれた膨大で複雑なフローに従って数多くの遺伝子が連携しながらある機能を実現しているのです。だから遺伝子を小さい単位に切り分けて「分析」していってもそのメカニズムはわかりません。遺伝子とタンパク質、外部環境や偶然などの相互作用を「総合」していかないと謎は解けない。DNAの文字が全て読めたと聞くと、遺伝子についてほとんど分かってしまったのではないかという印象を持ってしまいがちですが、そんなことは全くないというのが驚きです。

最後に、本書が問いかける倫理的な問題が、読者に否応なく遺伝子について深く考えることを要求してきます。出生前診断でダウン症のリスクが高いことが分かったら堕胎するということが一般的に行われています。そのような遺伝子の選別は様々な形で実用化されています。著者はこれをナチス時代の「優生学」ならぬ「新優生学」となっている側面があると指摘します。遺伝子の「異常」と言う場合に、それが正常化か異常かというは所詮人間の価値判断にすぎません。もともと多様性が高く、その多様性を維持することによって生き残ってきた遺伝子にとっては、異常も正常もないのです。人間の判断で遺伝子に優劣をつけ、その生命の可能性を断つ。これは残酷なナチスの優生学と本質的には変わらないかもしれないということにゾッとします。しかも、堕胎した子供が生まれていたら幸福だったのか不幸だったのか、それは確率の問題であって未来は誰にもわからないのです。

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