今、新型コロナウイルスによって世界中が混乱しています。医学の発展によって、日常ではほとんど感染症の恐怖を実感することがなかった私たちにとっては、とてもショッキングな事態です。一方で、近代になって感染症をひきおこす細菌やウイルスが発見される前の時代の人々にとっては、目に見えない感染症による死の恐怖は日常的なものでした。
本書では、いくつかの代表的な感染症をピックアップして、最古の感染の記録から近代のワクチンの開発、そして現在に至るまでの歴史をそれぞれ解説しています。自らがウイルス学の専門家である著者ですが、日本と世界の歴史に関する造形も深くて、歴史ものとしての面白さと医学読み物としての面白さが両方味わえるすごい本になっています。
昔は感染症の恐怖が日常だった
本書で紹介されている主な感染症についての出来事をまとめてみました。これを見て分かるのは、医学による感染症対策が始まるのは19世紀以降で、比較的最近だということです。それまでの人類の長い歴史において、有効な予防や治療の技術は存在しませんでした。人々は神に祈ることしかできず、膨大な数の命がただなすすべもなく失われていきました。
例えば天然痘。ジェンナーが人に無害な牛痘を使った種痘法を発明したのが1796年ですが、それ以前の18世紀の100年間には、推計で6000万人もの人が天然痘で亡くなったそうです。日本でも天然痘の流行がきっかけで奈良の大仏が建てられています。平安時代に栄華を誇った菅原道真は2人の兄を天然痘で失くしたことで実権を握ることができたそうです。大航海時代にスペインのピサロが南米のインカ帝国を征服した際には、ヨーロッパから持ち込まれた天然痘でインカ帝国の人口の60〜94%の人口が失われており、そのことが少人数のピサロの軍勢が帝国を征服できた要因だったようです。
また14世紀のペストの大流行では、世界でなんとおよそ8500万人(!)の人が亡くなったと推定されているそうです。ヨーロッパでは人口の1/3〜2/3の人が亡くなっています。しかも歴史上で世界的な流行はこれを含めて3回起こっています。その他、地域的な流行も何度も起きています。
高い人口密度と人の移動がパンデミックを起こす
どの感染症も、人類が農耕と牧畜を始めて定住し、人口密度が高まることで感染の拡大が起き始めています。さらに世界規模での人の移動が盛んになることよって、感染規模も世界に広がっていきました。
14世紀にパンデミックを起こしたペストの発生源は中国でした。そのころモンゴル帝国がその版図をヨーロッパにまで広げていました。その軍隊の移動と、帝国内の交易が盛んになったことによってペストがヨーロッパに広がっていきました。
18〜19世紀のイギリスでの産業革命によって人口が都市に集中しましたが、そのことが結核の大流行を生みます。産業革命の広がりとともに世界に広がり、明治時代の日本でも流行します。本書では、石川啄木、正岡子規、堀辰雄などの結核で亡くなった文豪たちの言葉を紹介しています。今と違い結核が身近な病気だったことを思わせます。宮崎駿監督の『風立ちぬ』はその堀辰雄の作品が原作になっていて、ヒロインが結核にかかり療養所に入るシーンが印象的です。
現代はこの人口集中と人の移動の度合いが行き着くところまでいった世界です。まさに感染症が広がる理想的な条件が揃っているわけです。この前までは怖い話だね、で済んでいましたが、コロナによってまさにその怖い状況に陥ってしまいました。
感染症が世界を変える
歴史上、感染症の大流行が世界の仕組みを変えてきました。新大陸に持ち込まれた天然痘と麻疹によってネイティブアメリカンの人口の大部分が亡くなり、結果として白人による支配が確率することになります。ペストの流行でヨーロッパの農民人口が激減したことで農民の立場が強くなり、封建制と中世を終わらせるきっかけとなります。局地的にも、政治の中枢にいる人が感染症で亡くなることで歴史が動く例が、本書でいくつも紹介されています。
今回の新型コロナも同じように世界を変えるのでしょうか。その規模まだ分かりませんが、少なくない変化が必ず訪れるのではないでしょうか。産業構造の変化、リモートワークの普及、さらには人間のコミュニケーションの文化まで変えてしまうかもしれませんね。
過去の医学者はもっと評価されるべき
人類史上、天然痘で亡くなった人は億単位に登ります。そう考えると、種痘を発明したジェンナーは、歴史上最も多くの人を救った科学者になるかもしれません。ところが、本の中では、医学部生にジェンナーを知っているか聞いたら2人しか知らなかった、というエピソードが紹介されています。著者はそこで中国のことわざを引用します。「井戸の水を飲むものは、井戸を掘った人を忘れてはいけない」。
感染症はワクチンが開発されると感染者が減り、人々の頭から徐々に忘れられていきます。現代に生きる人々の中には、天然痘って何?という人も大いのではないでしょうか。毎日電灯を使っている私たちの多くがエジソンのことを知っています。でも感染症は対策がうまくいくほどその名前を耳にする頻度は下がっていきます。その結果、ジェンナー、コッホ、ワックス、そして我が国の北里柴三郎をはじめとする感染症医学の偉人たちを知る人が少なくなっているのではないでしょうか。もっともっと井戸を掘った人たちのことを知るためにも、本書は読む価値があります。
世界の見方を変えるポイント
私たちは感染症対策に恵まれた時代に生きています。新型コロナで大騒ぎしている一方で、公衆衛生、ワクチン開発、経済対策などの対応が完璧とは言えないまでもある程度の合理的な判断のもとで実施されていく素晴らしい時代にいます。本書を読めば、それが当たり前にあることではなく、多くの先人の苦労や現在の医療関係者の努力によって存在していることを教えられます。悲惨な過去の歴史と、近代の医学の発展、その歴史を本書で知った上で今の感染症のニュースを見ると、また違った姿が見えてくるかもしれません。
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