映画『ジョーカー』のネタバレ感想です。作品をより楽しむための参考図書も紹介します。
悪役への感情移入
この映画は終始アーサーからの主観的な視点で描かれています。次々と不幸なできごとが降りかかり、救いになる人間関係もなく、どんどん追い詰められていくアーサーの視点を観客が追体験するような演出です。
- 街で子供達に看板を盗まれ、追いかけた挙句に暴行を受ける
- 仕事をクビになる
- 電車で揉めたエリートを射殺してしまう
- 女性と付き合っていたはずが妄想だった
- 自分の親だと信じた人から拒絶される
- 母親が自分の虐待を傍観していたこと、それによって意図せず笑う精神障害が残ったことを知る
- 尊敬するコメディアンに自分のスベった姿をネタにされる・・。
こうして孤独で拠り所のない状況に徹底的に追い込まれるアーサーに、観客は感情移入していきます。ラストでTV出演中に司会者を殺し、それがきっかけで起こったゴッサムシティの暴動でカリスマに祭り上げられるアーサーはまさに「悪」そのものですが、感情移入した観客はそれを見てむしろカタルシスまで感じるような作りになってます。
観客巻き込み型映画
この作品を観て思い出したのが、下の本の中で高畑勲が語っていた「観客巻き込み型映画」への批判です。
『アニメーション、折りにふれて』高畑勲
主人公が見る世界や出来事をなるべく詳細かつ具体的にリアルに映像化して、カメラを俯瞰ではなく限りなく主人公の視点の近くに持ってくる。さらにダイナミックなカット割りや情熱的な音楽を加えます。そうすることで観客が席に座っているだけで、何も考えなくても、主人公の体験を味わい、感情移入できる。現代はそういう「観客巻き込み型映画」が主流になっているというのです。
高畑勲は、現実での生身の体験が希薄になっている現代において、こうしたメディアに幼少から触れることで生まれる弊害、例えばひきこもりなどへの問題提起をこの本の中で述べています。だから彼のアニメは徹底的に客観的です。主人公に感情移入させるのではなく、キャラをあくまで他人として見て、応援したり心配したりさせるような演出になっているのです。
主観から客観への転換
『ジョーカー』はまさにそういった観客巻き込み型映画の一つだと言えるでしょう。でも特徴的なのは、感情移入させる先が「悪」だということです。普通は主人公は善人か、もしくは成長して善人になっていくものです。そこに感情移入して観客を気持ち良くさせます。しかし本作は違います。アーサーが悪に堕ちる過程を丁寧に積み重ねていき、ラストのひどい行為にむしろ必然性すら感じてしまう構造になっています。アメリカでは、現実で抑圧されている人たちがこの映画に影響されて犯罪を起こしてしまうのではないかという批判もあったようですが、うなずける話です。
自分もすっかりアーサーに感情移入して映画を見終わったのですが、エンドロールでふとある考えが浮かんでゾッとしました。「現実の自分はアーサーを追い詰める側の人間ではないのか?」ということです。正直、実際にアーサーみたいな人がいたら不気味で気持ち悪いです。積極的に話しかけたり関わろうとはしないでしょう。その人の背景を知ろうともしないです。もしバスで自分の子供にちょっかい出してるのを見たら、あのおばさんのような態度を間違いなく取ります。アーサーを追い込んでいく周囲の社会、自分はそちら側にいる気がするのです。そしてその結果、必然的に悪になっていく人がいるかもしれない。
そう思える自分は運が良くある程度幸せなんでしょうが、多分映画を観る人の大多数は、悩みはあってもアーサーほどのひどい状況にはないと思います。そういった意味で、この映画は観客として巻き込まれるだけではなく、さらに客観的な視点にも立つことで何倍も楽しめる作品ではないでしょうか。
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