【アニメ】高畑勲監督の傑作『母をたずねて三千里』ネタバレ感想

映画

高畑勲監督のTVアニメ『母をたずねて三千里』のネタバレ感想です。最後に作品をより楽しむための参考図書も紹介します。

高畑勲監督の1975年の代表作『母をたずねて三千里』。これまで観るきっかけがなかったのですが、昨年開催された高畑勲展で興味を持ったのをきっかけに、全話視聴してみました。いや、これは本当に名作です。最近のアニメに比べると、テンポも遅く演出のドラマティックさも弱いです。でもそれが欠点どころか、それこそがこの作品が名作だと言える理由にもなっています。

あらすじはまさにタイトルそのもの。イタリアのジェノヴァからアルゼンチンに出稼ぎに行った母に会いに行くために、10歳の少年マルコが長く苦しい旅に出ます。イタリアから船で大西洋を渡りアルゼンチンの各地を旅するのですが、お母さんがいると聞いて向かった先で出会えず、次に向かった街でもまた会えず・・を繰り返します。その都度のマルコの落胆が本当に辛くて観てられないです。でもそんな中で必ずマルコを助けてくれる人が現れ、なんとか旅を続けて行きます。

観客を巻き込まない演出

高畑演出の特徴は、観客を登場人物に「感情移入させない」ことです。高畑勲は、観客を主人公に同化させ感情を共有させ、あたかも自分が体験したことのように感じさせて没入させるような作品を否定しています。その逆で登場人物達をあくまで他人の視点から俯瞰して見せて、「主人公になって感じる」のではなく「主人公がどう感じているかを考える」ような構図で作品が作られています。

マルコは決して純粋で可愛い子供として描かれていません。周りが見えておらず、大人の助言を無視して頑固に突っ走る姿は、正直言って多少イライラさせるものがあります。そんなマルコの思いも分かるし、それを完全には受け止めきれない大人たちの気持ちも分かる。両方を分かった上で、お互いのすれ違いにハラハラしたり、わかり合えた喜びを感じたりと、あくまで他人の視点から共感して楽しむスタイルになっています。

例えば序盤のマルコと父ピエトロの関係がそうです。マルコの母への思い、自立心、父への不満。一方で仕事で人助けに打ち込みながら、マルコや母のことも考えている、でもそれをちゃんと伝えられないピエトロ。それぞれの事情とすれ違いを観客は外から眺めて知っていて、その上で心配したり和解を願ったりするのです。

聖人君主も極悪人もいない

この作品のもう一つの特徴は、善人と悪人の描き方です。マルコは旅の途中で多くの人に出会いますが、その中には良い人もいれば悪い人もいます。お金をすられたり、助けを求めても拒絶されたり、お金を持ってないと相手にされなかったりと、数々の他人の悪意にさらされます。

一方で、マルコが行き詰まってどうじようもなくなる時、必ず誰かが救いの手を差し伸べてくれます。そんな周囲の人々ですが、決して完全な極悪人でもなければ、何でもしてくれる聖人君主ではないのです。19世紀後半の労働者がまだとても貧しかった時代です。悪い人にもそうなる事情がそれなりにあるし、良い人もあくまで自分ができる範囲内で助けてくれるのです。

例えば、旅芸人のペッピーノさんはマルコをブエノスからバイアブランカからまで馬車で連れていってくれるすごく良い人ですが、一方で自分の「芸術」のためにマルコの母親の死を人形劇の題材にするような冷淡さも持っています。良い人にも自分の都合が必ずある。

マルコの母親を裏切ってお金を懐に入れたメレッリさんも、最後は後悔の念に苛まれていてマルコを助けるために鉱山で働くお金を前借りしてブエノスへの汽車賃にしてくれます。でも母親がすでにブエノスにいないことを知りながら、それをマルコに伝えられない。最後まで弱い部分を見せるのです。

格差社会を俯瞰する

作品で描かれる時代はどうしようもない格差社会です。イタリアは不況で仕事がなく、多くの人が経済成長する南米に移住していきました。マルコのお母さんもイタリアでは良い賃金の仕事がなくアルゼンチンに出稼ぎに出ます。マルコのビン洗いの仕事が、機械化で必要なくなるというシーンも象徴的です。

アルゼンチンには鉄道がありますが、それに乗るお金さえあればマルコもあそこまで苦労することはなかったでしょう。一方で、ブエノスでアンナが働いていた家、バルボーサ牧場の息子、二人のメキーネス、といったお金持ちは豪邸に住んで快適な生活を送っています。

面白いことに、作中でこの「格差社会」に不満を言う人物は登場しません。みんな貧しさに不満はあっても、金持ちや社会の仕組みを恨んだりはしていません。金持ちに仕えることにも疑問を感じていません。格差の構造に疑問を持つのは、あくまでも世界を俯瞰する観客だけです。

マルコがコルドバで友達になったインディオのパブロの妹フアナは、命に関わる病気にかかっても医者に行くお金がありません。そこでマルコはメキーネスさんからもらった汽車賃を使って彼女を助けます。感動的な場面ですが、これを俯瞰で見る私たちにはもう一つの側面が見えてきます。その命を救ったお金は、メキーネスさんにとっては急に現れたマルコに何のためらいもなく渡せるほどの額に過ぎないということです。これ、マルコの視点で感情移入していたら決して見えてこないですよね。

徹底した日常描写

アニメの中では、マルコが日常生活を営む姿が丁寧に描かれます。街での買い物や料理など、省略せず、時間をかけてじっくりと見せてくれます。誰とのシーンかは忘れましたが、「水を飲ませてくれ」と頼まれたマルコが水を汲んで渡すシーンがありました。普通は見切れてから次に水を渡すカットに行きそうなものですが、マルコが歩いていってコップをとり、水を汲み、また歩いていってコップを渡す、その一連を省略せずゆっくりと見せていたのが印象的でした。

それに加えて「移動」のシーンがすごいです。マルコって、ほとんど「ワープ」しないんです。例えば行ってきまーす!と言って次の瞬間に目的地にいるというのが普通でしょうが。この作品は違います。マルコはひたすら走ります。家から出て、ジェノバの路地を抜けて、角を何回も曲がってようやく目的地に着くのです。このリアリティは本当にすごいです。これを52話かけてずっと見せられると、まるでそこに本当に世界が存在しているような気がします。テンポが遅いとすぐに飽きられてしまう現代では、決してこんなアニメは作れないでしょう。

今の時代こそこれを観るべき

古い作品ですが、古いという理由でこれが今の人たちに観られていないのは本当にもったいないと思います。日常生活の中に幸せがある。極端に悪い人も良い人もいなくて、それぞれに事情がある。その中でお互い共感し、自分たちができる範囲で助けあう。そして良い出会いもあれば、いつか別れもある。なんとなく、今の時代の感覚にすごくマッチしている気がするのです。

参考図書

『アニメーション、折りにふれて』高畑勲

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